私達はごくたまにミッションスクールの聖書をよく読むサークルなんかに呼ばれて話しをする。
ここの宗教の教諭は、生徒達が「聖書に書いて有るから」と自ら考える事を放棄せずに、自分の人生は自分の裁量で動かす事が出来る様に、わざとキリスト教に批判的な私達を呼んでるんだよ
昨日は始めて
“背教者キャンディ”がサークルに行った
彼女は当社唯一の洗礼を受けたカトリックの信者なんだけど、原理主義の信者を嫌っていて、
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カトリックではタブーである遠藤周作の「沈黙」から一番の肝である
踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。
を引用し……生徒達に
『例えば…貴方が踏み絵のジーザスだとして、キリシタンの命を救う為、司祭に踏まれるか?
ジーザス(自分)は、生命をかけて正義と愛と真理を守り通した「人類の気高いものの旗印」だから踏ませるのを拒否し、眼前のキリシタンを犠牲にするのか?』
と、エグい質問をした
当然、みんなは踏まれる事を選んだが
最後にキャンディは踏み絵を踏んだ場合……
「人間の弱さ、卑劣さの使徒となり、人間の中にある最も聖なるもの崇高なものの最大の裏切者」となるほかない。
カトリックの司祭がこの様な物言いをし、ジーザスが心の弱い私達と共にあると言う考えを認めないと言っている。もはやこれは……
「悪魔の詩」の著者を襲撃した犯人と同類。
彼女はそう言って話しを終わった。
キャンディみたいな背教者を
“腐った林檎”くらいにしか思っていないであろうサークルの生徒は、何も言えなかった
私もアブラハムの神やジーザス、様々な宗教の神仏がいなければ、キリシタンやロヒンギャ、中東の人々など、誰一人宗教の犠牲者にならなかったと思うよ。
昔から読み継がれる聖書や経典は、疲れ切った人々の心と体に、明日を生き抜く力と癒しを与えてくれるハズ
故に神仏と言う性質を自己栄達や承認要求の為に都合よく利用する「一部か全部の宗教者」は諸悪の根源の様な気がするのは、私やキャンディだけなのだろうか……
…………桃子の日誌…