つい先日、
日本で中国人が死刑になってたのは、読者の皆様もご存じな事。
死刑を廃止しろ!!と言ったり
また、既に廃止してしまった国もあるが…
日本でも死刑が執行される度にいちいち声明を発する団体は多い。
この宗教団体もその内の一つ
真宗大谷派(お東)だ
当然、阿呆な世迷い言など非難されて当たり前だけど…多分、これには二つのワケがある。
その親鸞の弟子「唯円」が浄土真宗内部に出てきた異義や異端を見聞きし、ムカついて書いたのが
『歎異抄』
一時、その中にある『悪人正機』か?と、思ったけど違う
親鸞の言葉を信じているならば、できるはずだと云う
唯円はひるんで、「そんなことは、できません」と………
そこで、親鸞は
「そうだろう。殺したくても、殺すという
『業縁』がなければできないのだ」
「逆に、殺したくなくても、殺すという『業縁』があれば、己の意思を超えて殺してしまう事もある」
殺すも殺さないも『縁』次第って事
この中国人も縁あって日本に来て、縁あって人を殺した…自らの意思で起こした様に見えても、縁あって殺した…これが一つ
二つめは
阿弥陀仏の本願を「至心信楽(ししんしんぎょう)の願」と云い……
※信楽(絶対の幸福の事)
殺すと言う行為は、補償されている生きとし生ける物が幸せになる権利を奪う事になる(と言うより幸せになる義務を奪う)
これは、殺人も死刑も変わらない。
人が阿弥陀如来の本願を阻害する事があっては成らない
ありとあらゆる…一人残らず絶対の幸福に生まれさせてみせる、それまでは仏(如来)には成らないと誓った。阿弥陀如来になっている今、本願は達成されている》
多分、この二つの理由からだろう。
でも…なんか忘れてないだろか?
仏教の根本的な考え方は『因果』
そして、この因果の考え方を、死刑制度廃止を唱える真宗大谷派の発信者は、意図的に無視している様に感じて成らない。
読者の皆様もご存じの様に「すべての結果には必ず原因がある」これが「因果の道理」
「親捨てた 報いで子にも 捨てられる」
と言う言葉があるが…これが
「因果応報」
『因に応じて果が報う』ってやつだ
そして、因は縁に寄って結ばれ『果』になる…
「因縁果の道理」とも言う
全ての結果には「因」があり「縁」があり…故に「果」があるのだから
『被害者』にも因と縁とがあり、殺されたと云う「結果」が出た事になる。
全ての犯罪被害者にだ
仏教としては、犯人が被害者を殺した事で、被害者の因果が消えたのに、
犯人を死刑にして殺すと、違う「因」と「縁」が生まれてしまうって事なのかな?
真宗大谷派としてどう説明するのかな?
当然、交通事故もイジメも皆同じ
公平に働いている「因果の道理」と言う仏教の根幹を無視するのはよろしく無いね
他の宗教者はどう考えるのだろう
隨麗 (id:jiunji) 住職…住職はどう解釈するのだろう?