死体を愛する小娘社長の日記

小娘の葬儀社社長の私が、本心だけストレートに書く日記。社会 時事・各種宗教・社会哲学・古典・日々の出来事など

パラリンピックを見世物にしない為に..スポーツのバリアフリー

 

パラスポーツ

しきりにテレビで紹介してるれど人気ないね…


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これからもずーっと人気は出ない

 

 

 

障害者より健常者の方が遥かに人口が多いし

 

大昔…その様な人はサーカスなどの見世物になるのが宿命で

この方の様になれる人はごく僅か

中村久子 - Wikipedia

 


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       「中村久子 女史」

 

 

近代、やっと世界中で障害者の人格が認められては来たけれど

 

『頑張れは何でも出来る』とか

今度は感動を売り物にする『感動ポルノ』と云う見世物になっているのが現状

 

24時間テレビ

ある意味バリバラもそうかも知れない……

 

 

 

………バリアフリーとは「障壁が無い」と云う事だけど

パラスポーツこそ障害者が自ら作った障壁の一つ。

 

 

分けなくても良い競技もあるだろうに

 

 

例えば、バドミントンや卓球……

一部の陸上競技


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       「豊田まみ子選手」

 

 

あれ、足に障害が無い場合、

どう見ても障害者と健常者を別ける必要など全くない。

 

 

 

反対に健常者が障害者のスポーツをやっても構わないだろう。

 

 

ブラインドサッカー

二人一組でのマラソン

 

競技用車椅子によるレース

バスケットボールなど………

 

 

両者の競技とも、探せば幾らでも出てくると思う

 

 

この様にお互いが同じ様に出来るスポーツを、わざわざ障害者と健常者とか区別する事は必要がないのでは?

 

障害者と健常者が同じルールの中で、同じチームで、競い合う事こそがバリアフリー化されたスポーツだと私は思っている

 

 

 

最初のうちは「健常者の中で必死にプレーする障害者」って感動ポルノ扱いをされるだろうが…

 

何代と世代交代されるに従って、そのスポーツに障害者がいる事が当たり前になっていき、

彼らの競技での活躍、失敗の原因から「障害があるから」の言葉が無くなっていく

 

 

そうなって初めて

その競技のバリアフリー化が出来たと云い…

 

この成功からヒントを得て、障害者と健常者が一緒に競技するスポーツを増やし、

スポーツから「障害者」と云う括りを小さくしていく。

 

 

でもね、

こんな事も「障害者」自らが障壁を作るようでは、実現はしない。

 

 

自ら「私は障害者だから」と

障害を免罪符に「生きづらい」と云い、思考を停止してないか?

 

 

どんなに重い障害を持っていても

 

 

例えば、ジム・アボット投手の様に


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      「ジム・アボット投手」

 

 

 

「そんなのは関係ない」と健常者を遥かに越える努力や活躍をする事。

 

 

これが当たり前にならない限り

パラスポーツは見世物の領域から昇華する事は無いのではないだろうか……?

 

 

 

     私はそう思えてならない