パラスポーツ
しきりにテレビで紹介してるれど人気ないね…
これからもずーっと人気は出ない
障害者より健常者の方が遥かに人口が多いし
大昔…その様な人はサーカスなどの見世物になるのが宿命で
この方の様になれる人はごく僅か
「中村久子 女史」
近代、やっと世界中で障害者の人格が認められては来たけれど
『頑張れは何でも出来る』とか
今度は感動を売り物にする『感動ポルノ』と云う見世物になっているのが現状
ある意味バリバラもそうかも知れない……
………バリアフリーとは「障壁が無い」と云う事だけど
パラスポーツこそ障害者が自ら作った障壁の一つ。
分けなくても良い競技もあるだろうに
例えば、バドミントンや卓球……
一部の陸上競技
「豊田まみ子選手」
あれ、足に障害が無い場合、
どう見ても障害者と健常者を別ける必要など全くない。
反対に健常者が障害者のスポーツをやっても構わないだろう。
二人一組でのマラソン
競技用車椅子によるレース
バスケットボールなど………
両者の競技とも、探せば幾らでも出てくると思う
この様にお互いが同じ様に出来るスポーツを、わざわざ障害者と健常者とか区別する事は必要がないのでは?
障害者と健常者が同じルールの中で、同じチームで、競い合う事こそがバリアフリー化されたスポーツだと私は思っている
最初のうちは「健常者の中で必死にプレーする障害者」って感動ポルノ扱いをされるだろうが…
何代と世代交代されるに従って、そのスポーツに障害者がいる事が当たり前になっていき、
彼らの競技での活躍、失敗の原因から「障害があるから」の言葉が無くなっていく
そうなって初めて
その競技のバリアフリー化が出来たと云い…
この成功からヒントを得て、障害者と健常者が一緒に競技するスポーツを増やし、
スポーツから「障害者」と云う括りを小さくしていく。
でもね、
こんな事も「障害者」自らが障壁を作るようでは、実現はしない。
自ら「私は障害者だから」と
障害を免罪符に「生きづらい」と云い、思考を停止してないか?
どんなに重い障害を持っていても
例えば、ジム・アボット投手の様に
「ジム・アボット投手」
「そんなのは関係ない」と健常者を遥かに越える努力や活躍をする事。
これが当たり前にならない限り
パラスポーツは見世物の領域から昇華する事は無いのではないだろうか……?
私はそう思えてならない