昨日の記事に
何時もコメントをくれる Jhon Doe さんが
こんにちは。
きょうのブログを拝見して、いろいろ考えさせられました。ふと、遠藤周作さんの「沈黙」を思い出しました。
と云うコメントをくれた。
「沈黙」ね……私も言われて思い出した。
ハリウッドで映画化されたり、結構、有名な小説。
私はまだ父が存命中の高校生の時に、父が持っていた単行本を読んだ。
17世紀、キリスト教が禁じられた日本で棄教したとされる師の真相を確かめるため、日本を目指す若き宣教師のロドリゴとガルペ。
2人は旅の途上のマカオで出会ったキチジローという日本人を案内役に、やがて長崎へとたどり着き、厳しい弾圧を受けながら自らの信仰心と向き合っていく。
映画.com より
Jhon Doe氏が云う様に
忠臣蔵や如いては五輪ボランティア辞退騒動に基本的な構造がにている。
今回の老害騒動でなボランティア辞退者は、平気で主人公ロドリゴ達と信仰を裏切るキチジローってとこだな
まぁ人間なのだから
人間くさくても仕方ない
私は、
私が見た東北震災被災地でのキリスト教信者の振る舞いや、信者の信仰心を平気で試す「一神教3派の妬む神」は嫌いだが、
踏み絵とボランティア辞退者に付いて少し書く。
この「沈黙」でのポイントは
井上率いる幕府の人間達は、ロドリゴの目の前で次々とキリシタン達を拷問、処罰していく。
ロドリゴは精神的に追い詰められ、
自分のせいで拷問されるキリシタン達の為、ついに踏み絵を行って棄教してしまう。
主人公ロドリコは足の裏で「神」の声をを感じると云う不思議な呼吸の技を持っている様だ
カトリック、プロテスタント各派のキリスト教徒にとって一番大切なものは何なのか?
ゴッド?
ジーザス?
マリア?
聖書?
十字架?
ピエタ?
皆さん、これらじゃ無い事はお分かりのはず
自分や自分が大切にする者の「命」だ
「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。
踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」
小説の中で、踏絵のイエスがそうロドリコに語りかける
これに関してカトリック共がクレームをつけたそうだけど、
「これだからカトリック信徒は腐ってる」と当社唯一のカトリック信徒の「キャンディ」がメタメタに蔑むのだけどね。
小説の中でジーザスは
「自分の偶像の為に、ロドリコや信者の人々が死んで行くのは耐え難い事であり、信仰と云うものは、踏み絵の更に奥にあるものだ」と言っている。
イエスは、大事な人がそれこそ自分を守って死んだりしたら、えぐられる様につらい
そう言っている。
神父や牧師はその事を信徒に説教しているのか?
さて、これをオリンピックボランティア辞退騒動に当てはめてみると
森老害発言とボランティア(踏み絵)……
ボランティア活動をする精神(キリストの気持ち)は全く別物って事になる
森老害発言が言い訳の辞退者は論外だけど
誰がどんな思惑でボランティアに参加しても構わないが、踏み絵を踏みたいのに踏めない連中がまだいるはず
その踏み絵から誰でも聞こえるジーザスの声に耳を傾けるか、傾け無いのかは当人しだい。
延期から1年にもなる
一度、ボランティア集団を解散して、改めて集めたら如何なんだろう
変質したボランティアが居ないのだから、
すがすがしいオリンピックになるのではないか?
私はそう思う