托鉢……
いや……やはりこの言い方…
難行苦行は僧侶のロマンを掻き立てるのか?
先日、葬儀打ち合わせと営業1部長への引き継ぎの為に、下町工場が沢山ある住宅地にある遺族の家に行ったら
どこかの僧侶が『托鉢』をやっていた。
しかも一人で…
よく見ると工場に托鉢に行ってるみたいだけれど…
遺族の家からの帰り道、
警官に職務質問されていた。
まぁ、当然と言えば当然
一人の場合
人通りの多い路上や街中でお金をなど入れて貰うのを待つ『喜捨』の形をとるのが普通。
あれなら窃盗団の現地下見と思われて通報されても文句は言えない。
でも、彼はこんな苦労をすればするほど、信仰心を掻き立てる様だ。
多分…『殉教精神』かな……
ゴーダマが死んだ後…自己承認要求と劣等感を内包しながら仏教は多数の諸派に分かれて変質していく。
でも、この様な事はユダヤ教を始め様々な宗教、団体、クラブなど現代でも普通にある事だけど……
仏教は修行の根本的な事が変質してしまった
難行苦行はよろしく無いと釈迦は言っているのに、厳しい修行が持てはやされている。
『千日回峰行』
が良い例だ。
誰が千日回峰行を成功させても即身仏になっても世の中に何の影響も与えないのに……
苦行…その行動は誰の為、何の為の行動なのと聞かれて
『世の中の衆生凡夫の為』などと答える僧侶はダメ坊主だなこりゃ………
前に書いた托鉢僧はその様に答えて欲しくないと私は願っている……
坊主よ原始に戻れ!